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2020年2月の写真です。続きを読む

まず、船田石器時代遺跡を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町360


なかなか見つからず、苦労の末やっと発見。
船田石器時代遺跡 ブログ

●船田石器時代遺跡についてザックリと
 1927年にこの場所で円形型の敷石住居跡が1軒発見されました。調査の結果、この住居跡は縄文時代後期のものと見られ、直径5mほどの範囲に川原石が敷かれ、直径60cmほどの炉が置かれており、周囲では土器も出土したようです。この遺跡は当時としては貴重なものだったため、発見された翌年の1928年に国の指定史跡になりました。
 
 しかしこの土地は、1945年まで陸軍幼年学校の敷地であったため、とくに手入れや保存などをしてはいなかったため、少し荒廃してしまったそうです。戦後この土地は陸軍の土地ではなくなり、1968年に都の住宅建築事業による新長房団地造成のため、土地の広範囲の調査が行われたのですが、この際、古墳1基と317軒の住宅跡が発見されたそうです。年代は弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と、この土地には古くから多くの人々が住んでいたことがわかりました。

 現在は埋め戻され、最初に発見された敷石住居跡は、児童館のグラウンドになっており、「史蹟船田石器時代遺蹟」という石碑が建てられ、この周辺の約1200㎡の範囲は船田遺跡として保存されています。


●まとめ 感想
 何度も書いたと思いますが、看板や案内が無いので見つけるのが大変でした。苦労してやっと見つけたのに、あったのは石碑一つだけでした。ここ一応、国指定史跡なんですけどね・・・。石碑しかないので、イマイチどういった遺跡だったのかよくわかりませんでした。
 ちなみに日曜日の午前中だったので、私が石碑の撮影をしている後ろでは、地元の野球少年団の子供たちが練習をしていました。邪魔にならないように素早く撮影を終え、船田古墳へ急ぎました。



次に船田古墳を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町 都営長房南団地付近


船田石器時代遺跡近くの団地前の広場で発見。
船田古墳 ブログ用


解説の看板もありました。
船田古墳 案内板 ブログ

●船田古墳についてザックリと
 この古墳は1971年に長房団地造成のための調査で発見された古墳で、7世紀前半ごろに造られたもので、この辺一帯を統率する立場にあった人物の墓ではないかと言われています。
 古墳の規模について解説の看板によると、「直径14m、幅約1mの周溝をめぐらした小規模な円墳。中央部に長さ4.7m、幅2.7mの河原石を積んだ石室があり、この部分に遺体を埋葬したものです。過去に盗掘されたらしく、副葬品は残っていませんでした。」とあります。
 現在は埋め戻されてはいますが、古墳のあった場所がわかるように赤い色の石が並べられています。


別角度から撮影したもの
船田古墳 ブログ用2


●まとめ 感想
 先に訪れた船田石器時代遺跡と同じく、周囲に案内の看板が無かったため、見つけるのに苦労しました。ですが、石器時代遺跡とは違い、こちらは、古墳の解説看板がありました。解説看板の写真からわかるように、結構しっかりとした発掘調査を行ったようです。
 中央に古墳跡があり、周囲にいくつかのベンチと、解説の看板が1本立っていいるのみのシンプルな配置で、あまり人が訪れている様子もありませんでした。こちらも苦労して見つけた割にはほとんど見るものが無かったです。ですが、人が全然来ないので、遺跡とか関係なく、ゆっくりと過ごしたい人にはおススメのスポットです。


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次回は、ケンモンキリガを紹介します。

場所はココ 東京都多摩市落合1丁目14-16-2 
東京都埋蔵文化センターの隣、遺跡庭園 縄文の村内



●多摩ニュータウンNO.57遺跡についてザックリと
 この遺跡は昭和40年(1965年)に多摩ニュータウンの建設に伴い、本格的な調査が開始され、昭和45年に遺跡の主要部分の調査が始まりました。それによるとこの遺跡は、今から約6000年前の縄文時代前期前半と、約4500年前の中期後半の集落跡であることが判明しました。また、縄文時代前期前半の竪穴住居跡が2軒、中期後半の竪穴住居8軒、多量の土器や石器、狩猟に使われたとみられる落とし穴、死産した新生児を葬ったとみられる土器などが出土しました。これらのことから、この場所には一時期には2~3軒の住居で構成された集落であったことが判明し、多摩丘陵における典型的な集落遺跡の一つになりました。
 都はこの遺跡を保存し、平成元年(1989年)に東京都の史跡に指定、「遺跡庭園 縄文の村」と名付け見学できるようにし、すぐ横にはこの遺跡の解説や出土品などを展示した、東京都埋蔵文化センターを建てました。

 遺跡庭園では、縄文時代前期前半と中期後半の竪穴住居が2軒、別の場所から移設した縄文時代中期末の敷石住居が1軒再現されています。これら住居の再現は当時使われていたであろう、栗の木や茅などの材料で建てられ、また、当時多摩丘陵に茂っていた樹木や野草など、約50種類が植えてあり、さらには当時の人々が使っていたわき水跡も再現し、当時の人々の生活ぶりがよくわかるようになっています。


再現住居の一軒 
内部に入ることができるようになっています。親切に入り口のところに小さな懐中電灯が置いてあります。
多摩ニュータウンNO.57遺跡


内部の様子です。全面に石が敷き詰められています。真ん中で火を焚いていたのでしょうか?天井は思ったよりも低くなく、床も石が敷き詰められているのでゴツゴツしていたりデコボコしているのかな、と思いきや、しっかりと平にならされているのでゴツゴツ感やデコボコ感といった不快感はありませんでした。現代人でも案外住めるかも?
多摩ニュータウンNO.57遺跡(内部)


これは別の住居再現の内部。これは敷石ではないです。こっちよりも上の写真の方が過ごしやすかったです。
多摩ニュータウンNO.57遺跡(内部)2


これはわき水跡の再現。見た感じだとあまり大きくはなく、あまりたくさんの水がわき出ているようには見えませんでした。当たり前ですが、当時は水道なんてありませんから、人々は川などに水を一々汲みに行っていたようです。川はすぐに容器に水をいっぱいにすることができますが、このようなわき水から汲むとなると、容器にいっぱいにするのに結構な時間がかかったのではないでしょうか。それに水を運ぶのもかなりの重労働だと思います。蛇口をひねれば水が出る、現代の水道技術に感謝ですね
多摩ニュータウンNO.57遺跡(わき水跡)


●まとめ 感想
 この遺跡はこれまで見てきた、本町田遺跡勝坂遺跡などと比較すると、あまり広くはないのですが、再現住居跡が3軒もあり、また、わき水の再現、当時の森の再現など、他の遺跡に負けないほどのボリュームがありました。解説の看板などの案内もしっかり書かれていて、この遺跡でたくさんのことが学べるでしょう。
 遺跡内はとても綺麗に整備されていて、再現住居にカビや虫が繁殖しないため、週に何度か火を焚くなどしてしっかりと管理され、東京都がこの遺跡を大切に保存していることがよくわかりました。
 ちなみにこの遺跡の下にはまだいくつかの住居遺構が眠っているらしいです。なんでも今から約3万年前の旧石器時代の土器もあったんだとか。この辺りは今も昔もたくさんの人が住んでいたみたいですね。掘り起こして再調査とかしないのかな?


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次回は、ニワトリを紹介します。

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