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2019年12月の写真です。続きを読む

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勝坂遺跡についてザックリ紹介します。

 勝坂遺跡公園の場所


 この遺跡は神奈川県相模原市にある縄文時代中期(約5000年前)の大きな集落跡で、公園になっている部分は国の史跡に指定されています。また、考古学上において関東地方の基準となる遺跡、標式遺跡になっています。要するに研究上重要な発見があった遺跡です。
 どのように重要な発見があったかというと、まず一つ目が、土器の発見です。日本の古代の時期区分は、土器の模様や形で決められています。例えば「この遺跡はAの模様と形の土器が出土したから、この遺跡は縄文時代初期のものだな」とか「この遺跡はAの模様と形の土器に加え、Bの模様と形の土器も出土した。つまりこの遺跡は縄文時代初期から存在し、中期頃まで人が住んでいたんだな。」といった感じで、出土した土器によって時代区分をある程度決めることができます。その模様と形の基準となる土器が発見されたのがこの勝坂遺跡です。土器は勝坂式土器と命名されました。土器の特徴としては造形がとても豊かで、人やヘビ、獣類などの動物を表現した模様をしています。公園内の管理棟内に土器の展示スペースがあるので気になる方はぜひご覧になってはいかがでしょうか。
 二つ目が大量に出土した打製石斧(だせいせきふ)です。研究を進めていくと、この石斧は狩猟の際に獲物を叩くためではなく、地面を掘るために使われていたことがわかりました。これは縄文時代に農耕がすでに行われていた、またはその概念があったことを推察できる史料になりえるものでした。これまでは農耕は主に弥生時代に行われていたというのが通説でしたが、この発見により縄文時代にも農耕を行い、定住生活をしていたのではないかといわれるようになりました。
 これら二つが考古学研究上、重要であるといわれ、国指定史跡と標式遺跡になった理由です。

遺跡公園内の略図(写真データ残ってなかったので絵でごめんなさい🙇)
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 絵の赤丸の部分で住居跡が五つ発見されました。五つの内三つが廃絶住居(はいぜつじゅうきょ)と呼ばれ、ちょっとした窪地になっています。これは竪穴式住居の跡であると考えられ、ここに住んでいた住人が別の家に移ったと考えられています。この遺跡の廃絶住居では、土器や石器、石や炭化物が大量に出土したので、恐らくはゴミ捨て場として利用していたのではないかと思われています。残りの二つが竪穴式住居跡で笹葺屋根と土葺屋根の再現がなされていて実際に中に入ることができます。
 絵の左上、緑で林と書かれた部分は、縄文生活林と呼ばれ、林の木々は家を建てる際の建築材や道具を造る際、その他火を起こす際の薪として使用されていました。また、自生している山菜やクリやクルミを食料にするなど、ここに住む人々にとってなくてはならないものでした。この土地はとても日当たりが良く、また土壌も良かったためこのような環境になったと思われています。
 絵の生活林の左下、敷石住居跡が発見されました。この住居跡からはいくつかの土器が出土しました。
 絵の一番左側かんり、と書かれている部分には、出土した土器などの展示と解説のある管理棟と、トイレがあります。

勝坂遺跡の周辺
 勝坂遺跡の周囲には縄文時代中期の遺跡が数多く存在します。原東遺跡、川尻中村遺跡、新戸遺跡、当麻・田名花ヶ谷戸遺跡、田名塩田遺跡群、下溝遺跡群などです。これらの遺跡は相模川とその支流域に多くあり、10数軒から数10軒の集落跡で、5000年前から500年間にわたって継続的に集落が営まれていたことを示す史料になります。気になる方はぜひそちらの遺跡たちにも足を運んでみてはいかがでしょうか。

 余談ですが、日本の場合、建物を建てるとき地質調査を行い、遺跡が発見された場合は、一旦建築作業を中断し遺跡の調査をします。調査では遺跡がどのくらいの範囲なのか、どのような形なのか、どこでどのようなものが出土したのかなどの情報を絵などに書いてメモしたり、写真に撮って記録しておきます。調査終了後、遺跡を保存したり、崩して建物を建てる、という流れになっているのですが、このときに出土した土器や石器などは、落とし物として警察に届けられ、財布など通常の落とし物と同じように3か月保管されます。持ち主がいなければ、警察に書類を提出後、博物館などの研究機関で保管することができます。持ち主が現れた場合は、それを証明できるもの(先祖が書いた古文書など)を提示し認められれば、持ち主のものになるそうです(例外も有り)。もしも警察に届けずに勝手に保管してしまったら、横領の罪に問われてしまいます。
 まさか、考古学の発掘に警察や法律が絡んでくるとは驚きですよね

興味があれば
    

次回は、2017年7月の投稿結果とセミを紹介します。

勝坂遺跡の解説の前にまずは、昔の住居についてザックリと解説していきます。
 
 考古学では人々の生活や活動に関わるものの痕跡、例えば家の跡、井戸の跡、カマド跡、城跡、儀式場跡、水田跡などの建物跡や人工物跡を遺構(いこう)または、生活遺構(せいかついこう)と呼び、遺構から発掘された土器や石器、装飾品などは遺物(いぶつ)と呼んでいます。勝坂遺跡は縄文時代中期(約5000年前)の集落の跡で、多くの遺構や遺物が発掘されました。この時代の建物は、平地式(へいちしき)、竪穴式(たてあなしき)、高床式(たかゆかしき)の3種類があります。

①平地式住居
 平地式は、その名の通り地面を床面として建てられた住居で旧石器時代から縄文時代の初期にかけて盛んに造られました。火を焚く炉を中心にして周囲に一定間隔で柱を立て、その柱の上部に屋根を付けました。また、建物の周囲には、水の浸入を防ぐために溝を巡らせている場合もあります。
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住居の地面は大体こんな感じです。この上部には屋根をつけます。絵下手でごめんなさい🙇


②竪穴式住居
 竪穴式住居は地面を掘り下げ床面とし、中央には火を焚く炉を置き、周囲には屋根を付けるための柱を立てた住居です。人々の定住化が進んだ縄文時代中期頃から盛んに造られ、100軒を超える竪穴式住居の大集落が形成されたりもしました。また、弥生時代から平安・鎌倉時代までの庶民の一般的な住居として存続しました。
 主な特徴としては、夏は涼しく、冬は暖かいという日本の風土に適していて、建て替えも容易です。一方、湿気が多く、屋根の耐久があまりよくなく、また、火災に弱いという欠点があります。
 勝坂遺跡ではこの住居跡が多くあります。
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こんな感じです。


③高床式住居
 高床式住居は、柱や杭の上に高く床をはり、梯子を使って出入りする住居です。日本では縄文時代から造られたとみられ、集落の首長や身分の高いものの住居、穀物の保管庫として用いられたといわれています。弥生時代には日本のいたるところで建てられました。静岡県にある登呂遺跡(とろいせき)や佐賀県の吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)は代表的なものです。この建築様式が発展して、後の時代の王宮や神社の形の祖となったといいます。
 特徴は、地面から離れているというところにあります。これにより通気性に優れ、雨による水の浸入を防ぐことができます。これは日本のような湿気の多い地域にとっては大きな利点であるといえます。また、ネズミなどの害獣や害虫の浸入も防ぐことができます。さらには、平地式住居、竪穴式住居とは違い、地面を整地する必要が無く、足場の悪い斜面や海岸などの水上にも建てることができます。八丈島や奄美大島、北海道のアイヌ民族の間では近代まで建造されていました。現在では、東南アジアなどで多くみられるそうです。
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高床式住居の一般的な造りです。赤丸で囲ったところにネズミなどの害獣が侵入しないように返し(ネズミ返し)をつける場合もありました。


その他、敷石住居跡について
 敷石住居跡(しきいしじゅうきょあと)もしくは、配石遺構(はいせきいこう)などと呼ばれています。これは床の一部もしくは前面に、表面が滑らかな川原石などを敷いたもので、縄文時代中期から後期の関東地方の川の近くなどの、敷石として使いやすい石がたくさん取れるところで盛んに造られました。
 これらは儀式場もしくは、儀式に深い関わりのある者(司祭的な人)の住居ではないかと考えられていますが、一つしか無い集落や、複数存在している集落があったりしたため、完全に儀式のみに関わりがあったともいえず、時代や地域によってまちまちだったのではないかと考えられています。また、遺骸を埋葬する穴にも敷かれていたことから、墓としての意味もあったのではないかと考えられています。
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このようにして、地面に石を敷き詰めていました。周囲に柱を立てて屋根をつけ住居にしたり、遺骸を置き、埋葬したりしていました。

 
 余談ですが、「考古学」と聞くと、縄文時代から古墳時代にかけての文字史料のあまり残っていない、古代日本のことを研究する学問と思われがちですが(私もそうでした。)、大学の先生が授業で、「考古学は、古代日本を研究する学問というのではなく、土の中に埋まっている史料を研究する学問のことだ。要するに土の中に埋まっていれば、鎌倉時代だろうが、江戸時代だろうが時代に関係なく、考古学の研究範囲になるんだぞ。」と言っていました。「確か遺構の発掘作業や遺物の保管方法も、その遺構がどのような時代かに関わらず、同じような手法が用いられているな。」と私は納得しました。
 考古学について調べてみると、歴史に関する【歴史考古学】だけではなく、遺構や遺物を実際に使ってみる【実験考古学】や近代における戦争の跡(防空壕や塹壕など)を研究する【戦跡考古学】、宇宙について研究する【宇宙考古学】など、歴史に関係なく様々な分野がありました。この分野は今でも新しい研究領域が生まれているとのことです。考古学というのは思った以上に奥が深い学問ですね。

興味があれば

    

    

次回は、勝坂遺跡について紹介します。

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