カテゴリ: 史跡紹介

遊歩道を歩き、虫や景色の写真を撮りながら、約30分ほどかけて目的地の根小屋地区に到着しました。

場所はココ   神奈川県相模原市緑区根小屋162



●まずは津久井城についてザックリと
 この城の築城年代や誰が築いたかについては、史料が乏しくよく分かっていませんが、鎌倉時代に現在の神奈川県で大きな力をもっていた三浦氏(みうらし)という武家の一族の傍系で、神奈川県横須賀市津久井を拠点にしていた、津久井太郎二郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)という人物が築いたと言われています。
ちなみに別名、築井城とも呼ばれていたそうです。

 その後、室町時代の1394~1428年ごろには、この城は津久井氏ではなく、長山忠好(ながやまただよし)なる人物が城主を務め、関東管領である、扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の配下になっていました。

 
 さらにその後、応仁の乱が始まり戦乱の世になると城主は足利将軍家に仕えていた本間近江(ほんまおうみ)という人物になりました。

 ですが後に北条氏の祖である、北条早雲が相模国(今の神奈川県)を平定し、津久井城も北条氏の配下になりました。北条氏の配下になった後は内藤氏(ないとうし)という一族が城主を務めるようになりました。

 この地は北条氏の本拠地である小田原と、武田氏の領地である甲斐(かい 今の山梨県)を結ぶ要所であったため、この城は対武田に対する最前線の防衛拠点として使われるようになり、改修や整備が行われたと言われています。

 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により落城。その後は廃城になり、この地は徳川氏の直轄領となりました。


●三増峠の戦い
 この城は北条と武田との間に起こった、三増峠の戦い(みますとうげのたたかい)という、合戦に関わっています。

 この戦いは1569年に起こったもので、、武田信玄は武蔵国(むさしのくに 今の東京、埼玉)へ2万の兵力で侵攻。目的は北条の本拠地である、小田原を攻めるためでした。北条の不意を突き小田原に到着した武田軍だったのですが、小田原の守りが思ったよりも堅く、長期戦は不利と判断し撤退することに。

 しかし、これを逃がしたくない北条は退路にある神奈川県の三増峠(今の神奈川県愛川町)に1万~2万の兵を集め武田軍を迎え撃つことに。峠のすぐ近くにあった津久井城も参加する予定でしたが、武田軍が近くのトウモロコシ畑に火をつけ、それを見た津久井城の兵たちは武田の大軍が攻めてきたと勘違いし、城を出ることができず足止めされてしまい、武田軍の撤退を許してしまったといいます。


●城の構造
 この城は標高375mの山に築かれた山城で、山の麓に居住スペースを設けた「根小屋式(ねごやしき)」という形式で建てられ、山頂を主郭とし、山頂付近の尾根を削り、3カ所に敵の侵攻を防ぐ掘りをつくり、その周囲の峰に防御拠点として曲輪(くるわ)を配置、また、各尾根にも小さな曲輪を配置したり、物見やぐらを設置したりするなど、地形をうまく使った防御力の高い城になっています。

 現在は主郭跡や掘り、一部の土塁跡、蔵や屋敷跡、水源が残っており、ハイキングコースとなっています。


では実際に見ていきます。

内藤氏が住んでいた屋敷跡
津久井城址 屋敷跡 ブログ


津久井城の石碑 築井城址と書かれています。 ここからスタート
津久井城址 石碑 ブログ

こんな感じの道です。
津久井城址 道 ブログ用

少し進むと家老屋敷跡に出ました。
津久井城址 家老屋敷 ブログ

さらに進むと、掘り切りが出現。かなり急な傾斜です。
津久井城址 掘り切り ブログ

土蔵跡です。主郭まであと少し
津久井城址 土蔵 ブログ

登り始めてから約30分ほどで主郭に到着。思ったよりも広いです。
津久井城址 主郭 ブログ

帰りは別ルートで、津久井湖城山公園の花の苑に戻ります。

恐らく物見やぐらとして使っていたとみられる場所で、鷹射場(たかうちば)と呼ばれています。他の方がいたため、この写真しか撮れませんでした。 ベンチが置かれ、休憩スペースになっています。
津久井城址 鷹射場 ブログ

途中、太鼓曲輪という曲輪があったのですが、団体さんが休憩していたため、撮影できず
先に進むと、また堀切が出現。道が細くて進みにくい上に、急な傾斜。敵の足を止めるのに十分な設備です。
津久井城址 掘り切り2 ブログ

麓近くで池を発見。宝ヶ池(たからがいけ)と呼ばれています。枯れることがない池で、城兵が刀を研ぐのに使ったという言い伝えがあります。
津久井城址 宝ヶ池 ブログ

軍神である飯縄大権現(いづなだいごんげん)を祀った、飯縄神社(いいづなじんじゃ)です。神社と同時に曲輪としての役割もありました。
津久井城址 飯縄神社 ブログ

約30分かけて無事下山。思っていたよりも険しい道でした。


●まとめ 感想
 頂上である主郭への道中、様々な施設の跡があり、登っていて飽きることはありませんでした。山の地形を上手く生かしつつも、手を加えさらに攻略を難しくした感じで、水源である池もあるため、籠城戦も行うことができ、攻め落とすのはかなりの労力と戦力が必要だと思いました。
 この城を見て、北条氏の城建築技術の高さをうかがい知ることができました。この城がいかに重要な拠点であったかがよく分かります。


私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。購入もできます
写真素材 PIXTA


興味があれば

次回は、クロアゲハを紹介します。

まず、船田石器時代遺跡を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町360


なかなか見つからず、苦労の末やっと発見。
船田石器時代遺跡 ブログ

●船田石器時代遺跡についてザックリと
 1927年にこの場所で円形型の敷石住居跡が1軒発見されました。調査の結果、この住居跡は縄文時代後期のものと見られ、直径5mほどの範囲に川原石が敷かれ、直径60cmほどの炉が置かれており、周囲では土器も出土したようです。この遺跡は当時としては貴重なものだったため、発見された翌年の1928年に国の指定史跡になりました。
 
 しかしこの土地は、1945年まで陸軍幼年学校の敷地であったため、とくに手入れや保存などをしてはいなかったため、少し荒廃してしまったそうです。戦後この土地は陸軍の土地ではなくなり、1968年に都の住宅建築事業による新長房団地造成のため、土地の広範囲の調査が行われたのですが、この際、古墳1基と317軒の住宅跡が発見されたそうです。年代は弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と、この土地には古くから多くの人々が住んでいたことがわかりました。

 現在は埋め戻され、最初に発見された敷石住居跡は、児童館のグラウンドになっており、「史蹟船田石器時代遺蹟」という石碑が建てられ、この周辺の約1200㎡の範囲は船田遺跡として保存されています。


●まとめ 感想
 何度も書いたと思いますが、看板や案内が無いので見つけるのが大変でした。苦労してやっと見つけたのに、あったのは石碑一つだけでした。ここ一応、国指定史跡なんですけどね・・・。石碑しかないので、イマイチどういった遺跡だったのかよくわかりませんでした。
 ちなみに日曜日の午前中だったので、私が石碑の撮影をしている後ろでは、地元の野球少年団の子供たちが練習をしていました。邪魔にならないように素早く撮影を終え、船田古墳へ急ぎました。



次に船田古墳を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町 都営長房南団地付近


船田石器時代遺跡近くの団地前の広場で発見。
船田古墳 ブログ用


解説の看板もありました。
船田古墳 案内板 ブログ

●船田古墳についてザックリと
 この古墳は1971年に長房団地造成のための調査で発見された古墳で、7世紀前半ごろに造られたもので、この辺一帯を統率する立場にあった人物の墓ではないかと言われています。
 古墳の規模について解説の看板によると、「直径14m、幅約1mの周溝をめぐらした小規模な円墳。中央部に長さ4.7m、幅2.7mの河原石を積んだ石室があり、この部分に遺体を埋葬したものです。過去に盗掘されたらしく、副葬品は残っていませんでした。」とあります。
 現在は埋め戻されてはいますが、古墳のあった場所がわかるように赤い色の石が並べられています。


別角度から撮影したもの
船田古墳 ブログ用2


●まとめ 感想
 先に訪れた船田石器時代遺跡と同じく、周囲に案内の看板が無かったため、見つけるのに苦労しました。ですが、石器時代遺跡とは違い、こちらは、古墳の解説看板がありました。解説看板の写真からわかるように、結構しっかりとした発掘調査を行ったようです。
 中央に古墳跡があり、周囲にいくつかのベンチと、解説の看板が1本立っていいるのみのシンプルな配置で、あまり人が訪れている様子もありませんでした。こちらも苦労して見つけた割にはほとんど見るものが無かったです。ですが、人が全然来ないので、遺跡とか関係なく、ゆっくりと過ごしたい人にはおススメのスポットです。


私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。購入もできます
写真素材 PIXTA


興味があれば


次回は、ケンモンキリガを紹介します。

絹の道 大塚山公園内にある、道了堂跡を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市鑓水405-1 大塚山公園内にあります。

道了堂跡 ブログ

●道了堂跡についてザックリと
  この道了堂は1874年、鑓水商人であった大塚忢郎吉らが中心となって、この道を通る人や近隣の村々の安全のために、浅草花川戸から道了尊を勧請して創建されたそうです。正式名称は永泉寺別院大塚山大学寺というそうです。
 ちなみに道了尊とは室町時代前期の妙覚道了(みょうかくどうりょう)という僧のことで、神奈川にある最乗寺(さいじょうじ)という寺の創建に関わり、創建後は寺門守護と衆生救済を誓い天狗になったと伝えられ、最乗寺の守護神として祀られるようになったとされる人物です。

 このお堂は明治時代は加持祈祷などでたくさんの信者が訪れ、近くには茶店なんかもあったほどの賑わいがあったそうです。絹の道が衰退した後は、訪れる人の数は減ってしまったそうですが、戦時中は出征した兵士やその家族が武運や安全を祈りに来ていたそうです。そして戦後になると、また訪れる人が減り、ついには取り壊されてしまい、現在のような跡地を残すのみになってしまいました。ですが、心霊スポットとして有名になり、オカルトマニアたちがたびたび訪れるようになったそうです。


●心霊スポットと呼ばれるようになった2つの事件
 この場所が心霊スポットと呼ばれるようになった理由に、ある2つの事件が起こったことが挙げられます。

 まず1つは1963年に起こった、道了堂殺人事件と呼ばれる事件です。この事件は、1909年からこのお堂の堂守としてお堂に住んでいた老婆が、強盗の手により刃物でメッタ刺しにされ殺害。遺体は境内に放置されるという事件です。この事件後、お堂に訪れる人はいなくなってしまい、お堂は荒れ放題に、さらには放火と思われる不審火なども起こったりしたそうです。そして、この場所では亡くなった老婆のすすり泣く声や、宙を浮いている老婆の霊が出る、なんて噂が立つようになったそうです。

 
 2つ目は、女子大生が殺害され遺棄された事件です。この事件は道了堂殺人事件の10年後の1973年に起こった事件で、とある女子大生が行方不明になり、捜索活動が行われたのですが、なかなか女子大生は見つからず、そのころ、女子大生の通う大学の助教授が一家心中するという事件も起こりました。当初はただの一家心中だと思われていたのですが、女子大生と不倫関係にあった助教授が痴情のもつれにより女子大生を殺害し、遺棄したことがわかりました。犯人が自殺してしまったことにより、遺体の捜索は難航しました。
 丁度そのころに、「道了堂でその女子大生を見た」、「女性の幽霊を見た」などの話があり、その付近を捜索してみたところ、女子大生のミイラ化した遺体が発見されたそうです。この事件後、老婆の幽霊の他に、女子大生の幽霊も出るという話が広まったそうです。

 その後1985年、絹の道の整備により、お堂は取り壊され、今の土台を残すのみの姿となりました。

 また、道了堂には怪談話で有名な稲川淳二氏の、『首なし地蔵』という話のモデルになった首のない地蔵が置いてあったり、製糸場で働いていた工女の幽霊が出るなど、様々噂が流れ、人気(?)心霊スポットになっています。


●まとめ 感想
 心霊スポットでよく言われる、怖い感じや、嫌な気配などは感じませんでしたし、静かで落ち着ける場所でした。ただ、街灯といった明かりの類が無いため、夜に行くと雰囲気があって怖いかもしれませんですが、夜に行く際は、公園に行く道が山道であるため、安全のために必ず懐中電灯を持っていきましょう。幽霊に遭遇するよりも転んでケガする可能性の方が高いと思われます。

道了堂跡 ブログ2

 ちなみに首なし地蔵ですが、見つけられませんでした。首なし地蔵があるという話は撮影した当時、知らなかったため、道了堂跡ばかりに気を取られ、周囲をあまり見ていませんでした。そう言われれば、いくつかお地蔵さんがあったような気がします。でも首はちゃんとあったはずです。修復したのでしょうか?


私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。購入もできます
写真素材 PIXTA


興味があれば


次回は、船田石器時代遺跡と船田古墳を紹介します。

絹の道を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市鑓水989-2 絹の道資料館のすぐ近くに入り口があります。



●絹の道についてザックリと
 この道は神奈川往還(かながわおうかん)という名で、八王子やその周辺で生産された生糸を、多摩や江戸などへ出荷しており、浜街道もしくは武蔵道とも呼ばれている街道です。絹の道という名称は1955年ごろに、地域の研究者が名付けた名称らしいです。経路は八王子から町田を経由して横浜港までの約40kmで、現在の町田街道と国道16号に相当します。鑓水にある御殿橋という橋から大塚山公園にある絹の道石碑までの1.5kmの区間が八王子市の史跡に指定されており、また、文化庁により、当時の様子をよく残しているとして、「歴史の道百選」にも選ばれています。


●日本のシルクロード
 江戸時代末期の1858年、日本はアメリカと日米修好通商条約を締結し、横浜港が開港しました。それに伴い、外国との貿易が行われるようになりました。中でも日本の生糸は品質が良い上に安価ということもあり、外国の商人たちは争うように大量に生糸を買っていきました。
 八王子では元々養蚕が盛んに行われていたのですが、幕末以降はさらに養蚕とそれを使った織物が活発になりました。生糸の輸出量は年々増加し、ついには日本の輸出品の半分から3分の2以上が生糸を占めるほどになりました。その生糸を横浜港へ運んだのがこの道です。大量の生糸が運ばれたことから、古代の絹の流通経路となったシルクロードになぞらえ、この道を「日本のシルクロード」と呼ぶ人もいるそうです。


●鑓水商人
 生糸の生産が活発ではあったのですが、当時の生糸の生産者は農家で、農業のかたわらに、その合間をぬって行われている、農間稼ぎ(のうまかせぎ)と呼ばれるもので、今で言う所の副業のようなものでした。副業ということもあり、農家一軒一軒の生産量はそれほど多いわけではありませんでしたし、それを生産者が直接売りに行く時間もありませんでした。
 そこで、その生糸を買い集める商人たちが登場します。彼らは鑓水商人(やりみずしょうにん)と呼ばれ、生産農家から生糸を買い、それ各地へ運んで売りさばいていました。横浜が開港すると今度は、外国を相手に商売を行いました。外国の生糸需要が高かったので、鑓水商人たちは莫大な利益を得るようになりました。あまりに儲けすぎているので、江戸幕府は、生糸や絹、水油などは一度江戸を経由しなければならないという、「五品江戸廻令」(ごひんえどまわりれい)を出したのですが、商人たちはそれを無視し、絹の道経由で密貿易を行っていたそうです。
 
 日本からはこの道を通って生糸が外国に運ばれましたが、反対に外国の物や文化もこの道を通って日本に入ってくるようになりました。また、横浜に来航した外国人たちがこの道を通り、八王子や高尾山などの観光地へ足を運んでいたそうです。


●鑓水商人 絹の道の衰退
 巨万の富を築いた鑓水商人たちでしたが、その栄華は長くは続きませんでした。商人たちは生糸の輸出だけではなく、高利貸しや遊郭など様々な商売に手を出すようになりました。しかし、自転車操業だったらしく、それほど利益は出ていなかったそうです。それに加え、生糸の商権を横浜の商人に握られてしまったり、経済恐慌のあおりを受けて生糸の値が暴落するなどで、鑓水商人たちは次々と廃業していきました。

 その後、世界では「日本の生糸は形が不揃いである」との評価を受けるようになってしまったため、日本政府は品質の向上を図るべく、1872年に群馬県富岡市に富岡製糸場を設立し、機械による製糸が行われるようになりました。さらに、同年、新橋・横浜間で鉄道が開通したことにより、絹の道は使われなくなり、その役目を終えました。


では、実際に見ていきましょう。
絹の道資料館の近くにある道に入るとこんな感じです。
絹の道 ブログ用

しばらく進むと道に石が敷き詰められていました。石は小石から大きな石まで様々。ぬかるみ防止のためでしょうか?
絹の道 ブログ用2

絹の道 ブログ用3

数十分進むと、階段が見えてきました。ここは大塚山公園というそうです。
絹の道 ブログ用4

園内には石碑がありました。これが絹の道の石碑です。
絹の道 ブログ8

なんの石碑かはよくわかりませんが、商売繁盛の石碑か何かだったかと思います。
絹の道 ブログ6

絹の道 ブログ7

ちなみに公園内には桜の木もありました。
絹の道 ブログ5
 道自体はここまでというわけではなく、まだ続いていたのですが、全部歩くわけにもいかないので、犬塚山公園までとしました。


●まとめ 感想
 日本の生糸貿易を支えた道だったようでしたが、あまり長くは続かなかったようですね。やはり、機械化と自動化には勝てませんね
 鑓水商人たちの栄華も長く続かなかったのは、ちょっと残念です。次に売れそうな物を感じ取り、生糸から次の商売に上手く移行することができれば、長く栄華も続いたのに・・・。生糸であまりにも儲けてしまったため、調子に乗りすぎてしまい、商人としての目が雲ってしまったのでしょうか? 私も調子に乗りすぎてしまうほど儲けてみたいです

 絹の道ですが、一般に開放されている場所なのか、とても歩きやすい道でした。この場所から横浜まで約40kmほどの距離だそうですが、機会があれば、ぜひ横浜まで歩いてみたいです。かなりきつそうですが・・・。


私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。購入もできます
写真素材 PIXTA


興味があれば


次回は、道了堂跡を紹介します。

高月城跡を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市高月町1250


●高月城と大石氏についてザックリと
 この城は室町時代の1457~1459年、関東管領山内上杉氏の家臣で、武蔵国守護代を務めていた、大石顕重(おおいしあきしげ)という人物が築いたと言われています。その後は大石氏の拠点になっていましたが、1476年、同じく山内上杉氏の家臣であった長尾景春(ながおかげはる)が、山内上杉氏を裏切り、関東を統治してい鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利政氏(あしかがまさうじ)に組し反乱を起こしました(長尾景春の乱)。 大石氏をはじめ、周辺の武士たちも景春側につきました。大石氏は景春とこの高月城にいたのですが、扇谷上杉氏の扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)や太田道灌(おおたどうかん)らの勢いを止めることができず、景春は高月城から逃亡、大石氏は降伏。その後、戦国時代に入った1521年、大石定重の代になると手狭になったのか、この城のすぐ近くに滝山城を築城し、そちらに移ったとのことです。

 1524年から1546年まで続いた、武蔵国の支配を目論む北条氏綱(ほうじょううじつな)と、武蔵国を支配していた山内上杉氏の上杉憲政(うえすぎのりまさ)、扇谷上杉氏の上杉朝定(うえすぎともさだ)、鎌倉公方の足利晴氏(あしかがはるうじ)の3氏の連合軍が争った、河越城の戦いに北条氏が勝利すると、大石氏は北条氏の家臣になり、高月城と滝山城も、北条氏の配下になりました。その後、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、高月城も廃城になりました。

 しかし、高月城と大石氏を結びつける確かな史料が確認されてはおらず、これらの話は信憑性に欠けているため、この城に関しての詳細は未だはっきりとはしていないとのことです。
 
 
 この城の構造ですが、丘陵地に築かれ、近くにある秋川と多摩川の合流点、自然の谷や崖などを利用した天然の要害となっていて、周囲には小郭をいくつか造り防衛拠点にしたとみられ、標高約150mの高地を本郭にし、本郭は方70mほどの広さがあり、平坦になっています。滝山城からは1.5キロほどしか離れておらず、また、尾根続きであったため、滝山城の出城もしくは、滝山城の一部として使われていたのではないかといわれています。現在は道路を整備したり、畑を造ったりで、いろいろ削られてしまったそうですが、掘り、土塁、曲輪の一部は残っているそうです。


入り口の看板です。廃墟のホテルはこのすぐ横にあります。後で知ったのですが、ホテルのある場所にはかつて石塁があり、城の一部だったそうです。
DSC_0001

こんな感じの道です。
DSC_0003

曲輪(?)からの景色です。道路や畑、住宅が見えます。
DSC_0012

頂上の本郭です。この写真の左側に畑があります。
DSC_0018

案内の看板を発見。滝山城、高月城、根小屋城の3つを滝山三城と呼ぶそうです。根小屋城にはまだ行っていないので、機会があれば行きたいですね。
DSC_0014

●まとめ 感想
 どうやらこの城跡は私有地になっているらしく、山の至る所に立ち入り禁止のロープやらブルーシートがかけてあったり、木材などが置いてありました。掘りなどはなんとなくわかるのですが、曲輪や土塁などはよくわかりませんでした。言ってしまうと単なる小高い山といった感じで、城跡という印象は受けませんでした。ただ、ほとんど人が来なさそうな場所なので、一人でのんびり山歩きや散歩をしたい方にはおススメです。


私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。購入もできます
写真素材 PIXTA


興味があれば


次回は、大きなミミズを紹介します。

↑このページのトップヘ