カテゴリ: 史跡紹介

2019年8月の写真です。続きを読む

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遊歩道を歩き、虫や景色の写真を撮りながら、約30分ほどかけて目的地の根小屋地区に到着しました。

場所はココ   神奈川県相模原市緑区根小屋162



●まずは津久井城についてザックリと
 この城の築城年代や誰が築いたかについては、史料が乏しくよく分かっていませんが、鎌倉時代に現在の神奈川県で大きな力をもっていた三浦氏(みうらし)という武家の一族の傍系で、神奈川県横須賀市津久井を拠点にしていた、津久井太郎二郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)という人物が築いたと言われています。
ちなみに別名、築井城とも呼ばれていたそうです。

 その後、室町時代の1394~1428年ごろには、この城は津久井氏ではなく、長山忠好(ながやまただよし)なる人物が城主を務め、関東管領である、扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の配下になっていました。

 
 さらにその後、応仁の乱が始まり戦乱の世になると城主は足利将軍家に仕えていた本間近江(ほんまおうみ)という人物になりました。

 ですが後に北条氏の祖である、北条早雲が相模国(今の神奈川県)を平定し、津久井城も北条氏の配下になりました。北条氏の配下になった後は内藤氏(ないとうし)という一族が城主を務めるようになりました。

 この地は北条氏の本拠地である小田原と、武田氏の領地である甲斐(かい 今の山梨県)を結ぶ要所であったため、この城は対武田に対する最前線の防衛拠点として使われるようになり、改修や整備が行われたと言われています。

 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により落城。その後は廃城になり、この地は徳川氏の直轄領となりました。


●三増峠の戦い
 この城は北条と武田との間に起こった、三増峠の戦い(みますとうげのたたかい)という、合戦に関わっています。

 この戦いは1569年に起こったもので、、武田信玄は武蔵国(むさしのくに 今の東京、埼玉)へ2万の兵力で侵攻。目的は北条の本拠地である、小田原を攻めるためでした。北条の不意を突き小田原に到着した武田軍だったのですが、小田原の守りが思ったよりも堅く、長期戦は不利と判断し撤退することに。

 しかし、これを逃がしたくない北条は退路にある神奈川県の三増峠(今の神奈川県愛川町)に1万~2万の兵を集め武田軍を迎え撃つことに。峠のすぐ近くにあった津久井城も参加する予定でしたが、武田軍が近くのトウモロコシ畑に火をつけ、それを見た津久井城の兵たちは武田の大軍が攻めてきたと勘違いし、城を出ることができず足止めされてしまい、武田軍の撤退を許してしまったといいます。


●城の構造
 この城は標高375mの山に築かれた山城で、山の麓に居住スペースを設けた「根小屋式(ねごやしき)」という形式で建てられ、山頂を主郭とし、山頂付近の尾根を削り、3カ所に敵の侵攻を防ぐ掘りをつくり、その周囲の峰に防御拠点として曲輪(くるわ)を配置、また、各尾根にも小さな曲輪を配置したり、物見やぐらを設置したりするなど、地形をうまく使った防御力の高い城になっています。

 現在は主郭跡や掘り、一部の土塁跡、蔵や屋敷跡、水源が残っており、ハイキングコースとなっています。


では実際に見ていきます。

内藤氏が住んでいた屋敷跡
津久井城址 屋敷跡 ブログ


津久井城の石碑 築井城址と書かれています。 ここからスタート
津久井城址 石碑 ブログ

こんな感じの道です。
津久井城址 道 ブログ用

少し進むと家老屋敷跡に出ました。
津久井城址 家老屋敷 ブログ

さらに進むと、掘り切りが出現。かなり急な傾斜です。
津久井城址 掘り切り ブログ

土蔵跡です。主郭まであと少し
津久井城址 土蔵 ブログ

登り始めてから約30分ほどで主郭に到着。思ったよりも広いです。
津久井城址 主郭 ブログ

帰りは別ルートで、津久井湖城山公園の花の苑に戻ります。

恐らく物見やぐらとして使っていたとみられる場所で、鷹射場(たかうちば)と呼ばれています。他の方がいたため、この写真しか撮れませんでした。 ベンチが置かれ、休憩スペースになっています。
津久井城址 鷹射場 ブログ

途中、太鼓曲輪という曲輪があったのですが、団体さんが休憩していたため、撮影できず
先に進むと、また堀切が出現。道が細くて進みにくい上に、急な傾斜。敵の足を止めるのに十分な設備です。
津久井城址 掘り切り2 ブログ

麓近くで池を発見。宝ヶ池(たからがいけ)と呼ばれています。枯れることがない池で、城兵が刀を研ぐのに使ったという言い伝えがあります。
津久井城址 宝ヶ池 ブログ

軍神である飯縄大権現(いづなだいごんげん)を祀った、飯縄神社(いいづなじんじゃ)です。神社と同時に曲輪としての役割もありました。
津久井城址 飯縄神社 ブログ

約30分かけて無事下山。思っていたよりも険しい道でした。


●まとめ 感想
 頂上である主郭への道中、様々な施設の跡があり、登っていて飽きることはありませんでした。山の地形を上手く生かしつつも、手を加えさらに攻略を難しくした感じで、水源である池もあるため、籠城戦も行うことができ、攻め落とすのはかなりの労力と戦力が必要だと思いました。
 この城を見て、北条氏の城建築技術の高さをうかがい知ることができました。この城がいかに重要な拠点であったかがよく分かります。


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興味があれば

次回は、クロアゲハを紹介します。

まず、船田石器時代遺跡を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町360


なかなか見つからず、苦労の末やっと発見。
船田石器時代遺跡 ブログ

●船田石器時代遺跡についてザックリと
 1927年にこの場所で円形型の敷石住居跡が1軒発見されました。調査の結果、この住居跡は縄文時代後期のものと見られ、直径5mほどの範囲に川原石が敷かれ、直径60cmほどの炉が置かれており、周囲では土器も出土したようです。この遺跡は当時としては貴重なものだったため、発見された翌年の1928年に国の指定史跡になりました。
 
 しかしこの土地は、1945年まで陸軍幼年学校の敷地であったため、とくに手入れや保存などをしてはいなかったため、少し荒廃してしまったそうです。戦後この土地は陸軍の土地ではなくなり、1968年に都の住宅建築事業による新長房団地造成のため、土地の広範囲の調査が行われたのですが、この際、古墳1基と317軒の住宅跡が発見されたそうです。年代は弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代と、この土地には古くから多くの人々が住んでいたことがわかりました。

 現在は埋め戻され、最初に発見された敷石住居跡は、児童館のグラウンドになっており、「史蹟船田石器時代遺蹟」という石碑が建てられ、この周辺の約1200㎡の範囲は船田遺跡として保存されています。


●まとめ 感想
 何度も書いたと思いますが、看板や案内が無いので見つけるのが大変でした。苦労してやっと見つけたのに、あったのは石碑一つだけでした。ここ一応、国指定史跡なんですけどね・・・。石碑しかないので、イマイチどういった遺跡だったのかよくわかりませんでした。
 ちなみに日曜日の午前中だったので、私が石碑の撮影をしている後ろでは、地元の野球少年団の子供たちが練習をしていました。邪魔にならないように素早く撮影を終え、船田古墳へ急ぎました。



次に船田古墳を紹介します。

場所はココ 東京都八王子市長房町 都営長房南団地付近


船田石器時代遺跡近くの団地前の広場で発見。
船田古墳 ブログ用


解説の看板もありました。
船田古墳 案内板 ブログ

●船田古墳についてザックリと
 この古墳は1971年に長房団地造成のための調査で発見された古墳で、7世紀前半ごろに造られたもので、この辺一帯を統率する立場にあった人物の墓ではないかと言われています。
 古墳の規模について解説の看板によると、「直径14m、幅約1mの周溝をめぐらした小規模な円墳。中央部に長さ4.7m、幅2.7mの河原石を積んだ石室があり、この部分に遺体を埋葬したものです。過去に盗掘されたらしく、副葬品は残っていませんでした。」とあります。
 現在は埋め戻されてはいますが、古墳のあった場所がわかるように赤い色の石が並べられています。


別角度から撮影したもの
船田古墳 ブログ用2


●まとめ 感想
 先に訪れた船田石器時代遺跡と同じく、周囲に案内の看板が無かったため、見つけるのに苦労しました。ですが、石器時代遺跡とは違い、こちらは、古墳の解説看板がありました。解説看板の写真からわかるように、結構しっかりとした発掘調査を行ったようです。
 中央に古墳跡があり、周囲にいくつかのベンチと、解説の看板が1本立っていいるのみのシンプルな配置で、あまり人が訪れている様子もありませんでした。こちらも苦労して見つけた割にはほとんど見るものが無かったです。ですが、人が全然来ないので、遺跡とか関係なく、ゆっくりと過ごしたい人にはおススメのスポットです。


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興味があれば


次回は、ケンモンキリガを紹介します。

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