2020年2月の写真です。
●川尻八幡神社について
この神社は川尻八幡宮(かわじりはちまんぐう)とも呼ばれ、創建は戦国時代の1525年ごろだとされています。祭神は応神天皇で、舎人親王の子孫が奥州に下る途中に病で亡くなってしまったため、悲しんだお共の者が遺体をこの地に手厚く葬りました。この時に護持していた、京都の石清水八幡宮の分霊を御神体として奉り、祠を建てたのがこの神社の始まりだとされています。
江戸時代になると南東にのびる参道に松の木の並木があったことから、並木八幡と呼ばれ、祭礼の際には湯ばなや相撲の興行などが行われ、近隣の人たちで大いに賑わっていたそうです。
明治42年になると国家管理のもと寺社整備という形で、寺社合祀が行われ、近隣の村々から寺社がこの地に集まり、まとめて祀られるようになりました。
現在は毎年8月の第4土曜日と日曜日に、八幡神社とその周辺で「城山夏祭り」という祭りを開催し、神輿や山車が地域を練り歩き、大いに賑わっています。また、この祭りは「かながわの祭り50選」にも選ばれています。
入り口です。
入り口にあるウラジロガシ 推定樹齢500年以上とのこと。
鳥居です。正面の奥に拝殿が見えます。
参道です。
拝殿です。
拝殿の横にある天満社です。
同じく拝殿の横にある稲荷社です。
拝殿の近くにある御神木のシイノキ 推定樹齢500年以上らしいです。
同じく拝殿近くにあるヒサカキ 推定樹齢180年
拝殿の裏にあるホソバタブ 推定樹齢450年
境内を散策していると、なんと境内に古墳があるとのこと。拝殿から少し離れた南側で発見。川尻八幡神社古墳や翁塚と呼ばれているそうです。
古墳
●川尻八幡神社古墳について
この古墳は1929年に発見されました。調査の結果、川原石を組み合わせて石室が造られ、中からは直刀が3振、小刀が2口、宝珠型の鍔が1つ、鉄製の矢じりが30数本が出土しました。墳墓の様式と出土品から8世紀ごろの奈良時代のものと推測されました。この神社の由来である、舎人親王の子孫の墓ではないかと伝えられています。
古墳の横にあった看板です。ご覧の通り、出土品の模型があります。しかし、現在出土品は行方不明になってしまっているとのこと。
●まとめ 感想
この神社の境内には樹齢数百年越えの木々が多くありました。それだけ長くこの地域に神社が根付いているのだと感じました。また、境内はとても綺麗で手入れがよく行き届いていました。
古墳の方ですが、窪みに石が埋まっているといった感じで、古墳の全貌はイマイチよく分かりませんでした。それに出土品が行方不明とのことですが、とても貴重なものであるはずなのに、キチンと管理していなかったのでしょうか?行方不明になった出土品たちは今後、見つかることはあるのでしょうか?ぜひ見つかってほしいものです。
私のPIXTAページです。写真は購入もできます
興味があれば
次回は、2020年2月の投稿結果です。
川尻八幡神社(かわじりはちまんじんじゃ)に行ってきました。
場所はココ 神奈川県相模原市緑区川尻
●川尻八幡神社について
この神社は川尻八幡宮(かわじりはちまんぐう)とも呼ばれ、創建は戦国時代の1525年ごろだとされています。祭神は応神天皇で、舎人親王の子孫が奥州に下る途中に病で亡くなってしまったため、悲しんだお共の者が遺体をこの地に手厚く葬りました。この時に護持していた、京都の石清水八幡宮の分霊を御神体として奉り、祠を建てたのがこの神社の始まりだとされています。
江戸時代になると南東にのびる参道に松の木の並木があったことから、並木八幡と呼ばれ、祭礼の際には湯ばなや相撲の興行などが行われ、近隣の人たちで大いに賑わっていたそうです。
明治42年になると国家管理のもと寺社整備という形で、寺社合祀が行われ、近隣の村々から寺社がこの地に集まり、まとめて祀られるようになりました。
現在は毎年8月の第4土曜日と日曜日に、八幡神社とその周辺で「城山夏祭り」という祭りを開催し、神輿や山車が地域を練り歩き、大いに賑わっています。また、この祭りは「かながわの祭り50選」にも選ばれています。
入り口です。
入り口にあるウラジロガシ 推定樹齢500年以上とのこと。
鳥居です。正面の奥に拝殿が見えます。
参道です。
拝殿です。
拝殿の横にある天満社です。
同じく拝殿の横にある稲荷社です。
拝殿の近くにある御神木のシイノキ 推定樹齢500年以上らしいです。
同じく拝殿近くにあるヒサカキ 推定樹齢180年
拝殿の裏にあるホソバタブ 推定樹齢450年
境内を散策していると、なんと境内に古墳があるとのこと。拝殿から少し離れた南側で発見。川尻八幡神社古墳や翁塚と呼ばれているそうです。
古墳
●川尻八幡神社古墳について
この古墳は1929年に発見されました。調査の結果、川原石を組み合わせて石室が造られ、中からは直刀が3振、小刀が2口、宝珠型の鍔が1つ、鉄製の矢じりが30数本が出土しました。墳墓の様式と出土品から8世紀ごろの奈良時代のものと推測されました。この神社の由来である、舎人親王の子孫の墓ではないかと伝えられています。
古墳の横にあった看板です。ご覧の通り、出土品の模型があります。しかし、現在出土品は行方不明になってしまっているとのこと。
●まとめ 感想
この神社の境内には樹齢数百年越えの木々が多くありました。それだけ長くこの地域に神社が根付いているのだと感じました。また、境内はとても綺麗で手入れがよく行き届いていました。
古墳の方ですが、窪みに石が埋まっているといった感じで、古墳の全貌はイマイチよく分かりませんでした。それに出土品が行方不明とのことですが、とても貴重なものであるはずなのに、キチンと管理していなかったのでしょうか?行方不明になった出土品たちは今後、見つかることはあるのでしょうか?ぜひ見つかってほしいものです。
私のPIXTAページです。写真は購入もできます
興味があれば
次回は、2020年2月の投稿結果です。
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