2019年12月の写真です。
●浄泉寺城と浄泉寺について
平安時代末期、この城のあった周辺は、鎌倉五郎景政(かまくらごろうかげまさ)という武将の館があったのではないかという説があります。この鎌倉景政は非常に勇猛な武将であったため彼の死後この地に、彼を祀るために御霊神社(みたまじんじゃ)という神社が建てられました。
戦国時代末期になると八王子を支配している、北条氏照の家臣である、近藤出羽守助実(こんどうでわのかみすけざね 近藤綱秀とも呼ばれる)がこの地に城を築き、近藤砦と呼ばれていました。この砦は切り立つような丘に築かれ、周囲には湯殿川(ゆどのがわ)という川が流れていたため、非常に守りに適した地形だったといわれています。
そして1590年6月23日、城の敷地内に龍洞院殿一渓浄泉大居士という曹洞宗の僧により、御霊山浄泉寺として開基し、近藤砦も御霊山浄泉寺城と称するようになりました。
鎌倉五郎景政を祀る御霊神社も浄泉寺と一緒に管理されていたようですが、明治時代に入ると神仏分離政策により、御霊神社と浄泉寺は分けられ、浄泉寺は釈尊山浄泉寺と改められ、御霊神社は明神様と称するようになりました。現在は浄泉寺の霊園となっており、霊園整備の際、城の遺構の大半は削られてしまい、いくつかの空堀と土塁を残すのみになっているとのこと。ちなみに、浄泉寺城跡の隣には御霊神社があります。
では、実際に見ていきます。
これが浄泉寺です。すごく立派で、お墓参りの人たちも多くいらっしゃいました。そんな中、撮影していた私は周囲から少し浮いていたような感じでした。
霊園はとても広く、丘全体を削っているようで、お墓と駐車スペースがいたるところにありました。この写真は丘の一番高い場所の写真で、大きな噴水が置かれていました。この場所に本丸があったのでしょうか?解説や案内の看板が見つからなかったので、どのような構造だったのかイマイチよくわかりませんでした。それにしても、冬は噴水を止めている場所が多いのに、ここの噴水は止められていませんでした。ある意味珍しいかも?
ちょっとわかりにくいとは思いますが、奥に見える地面の位置からも分かるように、この場所はかなり高い丘であると言えます。
●まとめ 感想
霊園としてしっかり整備されていたので、城跡自体はとても歩きやすかったです。ですが、解説の看板が、浄泉寺城と浄泉寺の由来に関するもののみで、城の構造に関する解説は一切ありませんでした。看板では空堀と土塁が残っているとあったのですが、結局、見つけることができませんでした。もう少し詳細な案内があってもいいんじゃないかなー、なんて思いました。
私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。写真は購入もできます
興味があれば
次回は、御霊神社を紹介します。
東京都八王子市の浄泉寺城跡と浄泉寺へ行ってきました。
場所はココ 東京都八王子市館町
●浄泉寺城と浄泉寺について
平安時代末期、この城のあった周辺は、鎌倉五郎景政(かまくらごろうかげまさ)という武将の館があったのではないかという説があります。この鎌倉景政は非常に勇猛な武将であったため彼の死後この地に、彼を祀るために御霊神社(みたまじんじゃ)という神社が建てられました。
戦国時代末期になると八王子を支配している、北条氏照の家臣である、近藤出羽守助実(こんどうでわのかみすけざね 近藤綱秀とも呼ばれる)がこの地に城を築き、近藤砦と呼ばれていました。この砦は切り立つような丘に築かれ、周囲には湯殿川(ゆどのがわ)という川が流れていたため、非常に守りに適した地形だったといわれています。
そして1590年6月23日、城の敷地内に龍洞院殿一渓浄泉大居士という曹洞宗の僧により、御霊山浄泉寺として開基し、近藤砦も御霊山浄泉寺城と称するようになりました。
鎌倉五郎景政を祀る御霊神社も浄泉寺と一緒に管理されていたようですが、明治時代に入ると神仏分離政策により、御霊神社と浄泉寺は分けられ、浄泉寺は釈尊山浄泉寺と改められ、御霊神社は明神様と称するようになりました。現在は浄泉寺の霊園となっており、霊園整備の際、城の遺構の大半は削られてしまい、いくつかの空堀と土塁を残すのみになっているとのこと。ちなみに、浄泉寺城跡の隣には御霊神社があります。
では、実際に見ていきます。
これが浄泉寺です。すごく立派で、お墓参りの人たちも多くいらっしゃいました。そんな中、撮影していた私は周囲から少し浮いていたような感じでした。
霊園はとても広く、丘全体を削っているようで、お墓と駐車スペースがいたるところにありました。この写真は丘の一番高い場所の写真で、大きな噴水が置かれていました。この場所に本丸があったのでしょうか?解説や案内の看板が見つからなかったので、どのような構造だったのかイマイチよくわかりませんでした。それにしても、冬は噴水を止めている場所が多いのに、ここの噴水は止められていませんでした。ある意味珍しいかも?
ちょっとわかりにくいとは思いますが、奥に見える地面の位置からも分かるように、この場所はかなり高い丘であると言えます。
●まとめ 感想
霊園としてしっかり整備されていたので、城跡自体はとても歩きやすかったです。ですが、解説の看板が、浄泉寺城と浄泉寺の由来に関するもののみで、城の構造に関する解説は一切ありませんでした。看板では空堀と土塁が残っているとあったのですが、結局、見つけることができませんでした。もう少し詳細な案内があってもいいんじゃないかなー、なんて思いました。
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興味があれば
次回は、御霊神社を紹介します。
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