2019年12月の写真です。



 前回紹介した永林寺の境内の奥に、由木城跡(ゆぎじょうあと)があります。

場所はココ 東京都八王子市下柚木4




●由木城と大石定久について
 前回の永林寺の紹介でも述べたように、この城があった土地周辺は、武蔵七党に属していた由木氏が領しており、その名残として現在でもこの辺一帯は柚木(ゆぎ)という地名になっています。由木氏が没落した後は長井氏の所領となり、その後、関東管領の上杉氏の重臣であった大石氏へと支配が移り、この地に居館を構えました。


 1521年、大石定重が八王子に滝山城を築城し、1527年に息子の定久が家督を継ぐと、定久は由木城から滝山城へと移ることとなり、この地は叔父の一種長純大和尚(いっしゅちょうじゅんだいおしょう)に譲りました。


 1546年、仕えていた上杉氏が河越城の戦いで北条氏に敗北すると、上杉氏を見限り北条氏に仕えるようになりました。しかし、北条氏は大石氏に干渉し、当主の定久は隠居させられてしまい、家督は息子の定仲(さだなか)が継ぎました。ちなみに隠居生活をしたのが、以前にも紹介した東京都あきる野市の戸倉城になります。

 
 その後、1549年10月に定久は亡くなってしまうのですが、定久は亡くなる直前に、現在の東京都八王子市の東部にある、野猿峠(やえんとうげ)に登り自刃したという説があります。自刃の理由は大石家を北条氏に乗っ取られた恨みによるものとされていますが、自刃ではなく、自然死だったのではないかとも言われており、詳しいことはよく分かっていません。

 
 1559年になると北条氏三男の北条氏照が、定久の娘・比佐の婿養子となり、名前も大石氏照を名乗り、氏照に大石家の家督も実権も所領も奪われてしまいました。しかし1567年、氏照が北条家の軍事や外交を行うために北条家に戻ると、大石家の家督は再び定仲が継ぐことになりました。1590年に豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、今度は徳川氏に仕え、旗本などになって生き残ったそうです。

 ちなみに江戸時代に、定久の墓がこの永林寺に移され、現在は歴代住職の墓の隣に大石家の墓も置かれています。


 では実際に見ていきます。

 永林寺の拝殿から奥に進むと、すぐに由木城跡の看板が出現。ここから先は広い墓地が広がっています。
由木城跡 案内 ブログ用


 墓地を3分ほど進むと平らな場所につきます。ここが由木城跡です。遺構はお寺が建てられたことにより、削られてしまったため、この場所とお寺の周囲の空堀ぐらいしか残っていないようです。
由木城跡 ブログ用


 石碑です。
由木城跡 石碑 ブログ用

 
 城主の大石定久の像です。この土地では像が造られるぐらい有名だったり、名君として知られていたりしたのでしょうか?
大石定久像 ブログ用

 遺構の後ろ側。結構な傾斜になっています。
由木城跡 ブログ用2


 遺構の隣。傾斜に加え、堀のようになっています。自然にこの形になったのか、城の遺構なのかは分かりませんでした。
由木城跡 ブログ用3

 
 上の写真の隣にある沼。いつからこの場所にあったのかは不明。
由木城跡 沼 ブログ用


●まとめ 感想
 この城跡の遺構はほとんど残っておらず、わずかに残った遺構もそれほど広くなく、ただ平になった場所といった感じで、城跡ではなくお寺がメインのような気がしましたが、城の遺構の部分もお寺と同じくしっかりと手入れがされとても綺麗で、見学しやすかったです。また、城主の像が立っているというのも、これまでに無かったパターンで、新鮮に感じました。お寺と同じように、この場所も大切にされているんだな、と感じました。


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興味があれば

次回は、大石信濃守屋敷跡と松木屋敷跡を紹介します。