2019年12月の写真です。
今回は網代城(あじろじょう)跡を見に行ってきました。
場所はココ 東京都あきる野市網代 網代弁天山から入ることができます。
●網代城について
この城は標高約300mの弁天山(べんてんやま)と尾根続きになっている、標高約330mの城山(じょうやま 網代山ともいう)にある山城で、15世紀中ごろに築城されているとされていますが、はっきりとは分かっていません。
室町時代初期の南北朝時代の関東では、一揆と呼ばれる武装集団が存在しました。この集団は地方土着の中小武士団たちが、自分たちの利益を守るために手を組んだ軍事組織で、関東における南北朝の争乱や、京都の室町幕府と関東の鎌倉公方との争いで大きな戦力として戦いました。中でも大きな勢力を持っていたのは、別府氏による武蔵一揆、東京秋川周辺の武蔵七党である、西党が中心の南一揆、河越氏を中心とした秩父党平一揆などでした。この城は南一揆によって築城されたのではないかと考えられています。また、軍事拠点の他にも、周辺の村民たちが領主の重税から逃れるための、避難場所としても使われていたのではないかとも考えられています。
度重なる戦いで一揆の勢力が没落してしまった後、16世紀の中ごろになると関東は、北条氏の勢力下になりました。北条氏の四男である北条氏照は、この城を近隣の滝山城や高月城、八王子城などと連絡を取るための支城として使っていたのではないかとされていますが、どのような目的で使用され、どのような経緯で廃城になったかなど、詳しいことはわかっていません。
ちなみに北条氏が関東に来てからの城主は、青木氏か秋川土着の武士である貴志氏(きしし)ではないかと幕末の史料には記されているのですが、北条家の史料で、家臣団に貴志氏の名があるため、城主は貴志氏が務めていたという説が有力です。
では、実際に見ていきます。 ここが登山道の入り口です。現在の弁天山と城山はハイキングコースになっています。また、弁天山には貴志嶋神社(きしじまじんじゃ)と呼ばれる神社もあるそうです。城山に入る前にまずは、弁天山に登ります。
貴志嶋神社の鳥居です。ここから登っていきます。
道はとても歩きやすいです。
約5分後、案内板のある休憩所のような場所に到着。
案内によると、この場所の近くには神社と、弁天洞穴と呼ばれる洞窟があるとのこと、神社と洞穴は帰りに回ることにし、まずは弁天山の頂上に行き、その後、城跡を目指すことにしました。城跡は弁天山の頂上から結構遠い場所にあるんですね。
休憩所から数分後、急に岩が多くなりました。頂上が近いようです。
頂上に到着です。スペースが狭いばかりか岩だらけでした。
頂上からの景色です。晴れていたので、街並みがよく見えました。次は城跡を目指します。
頂上から少し戻り、今度は城山へ。400m先に城山があるそうです。
弁天山の頂上までは歩きやすかったのに、なんだか急に険しい山道になりました。
こんな感じの道を登ること約20分。目的地である、城山頂上の網代城本丸跡に到着。特に何か残っているというわけではなく、ただ平になっていて、解説の看板が一枚立っているだけでした。解説の看板によると、本丸の他に、堀と土橋が残っているそうですが、人工的に造られた部分なのか、自然にできた部分なのかよくわからず、城の名残はこの本丸跡しか発見することができませんでした。
ここから最初の休憩所の場所まで戻って、今度は神社と洞穴を見に行くことにします。
ちなみに、本丸から少し進んだ先にも道があり、このような看板が立っています。私が入った場所とは別の登山口があるようですが、神社と洞窟が見たいのと、疲れていたので、高尾神社側には行きません。
●まとめ 感想
弁天山の頂上までは簡単に行けたのですが、城山からはご覧の通り、険しい道になり、本丸跡についたころにはくたくたになっていました。城跡は本丸と、いくつかの堀と土橋などしか残っていないため、あまり見どころがありません。城跡目的で来るよりも、ハイキングのついでに見ていくくらいの方がいいかもしれません。また、ハイキングコースは、戸吹城跡という城跡に続いているそうなので、機会があればそちらにも行って見ようと思っています。
私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。写真は購入もできます。
興味があれば
次回は、貴志嶋神社と弁天洞穴を紹介します。
今回は網代城(あじろじょう)跡を見に行ってきました。
場所はココ 東京都あきる野市網代 網代弁天山から入ることができます。
●網代城について
この城は標高約300mの弁天山(べんてんやま)と尾根続きになっている、標高約330mの城山(じょうやま 網代山ともいう)にある山城で、15世紀中ごろに築城されているとされていますが、はっきりとは分かっていません。
室町時代初期の南北朝時代の関東では、一揆と呼ばれる武装集団が存在しました。この集団は地方土着の中小武士団たちが、自分たちの利益を守るために手を組んだ軍事組織で、関東における南北朝の争乱や、京都の室町幕府と関東の鎌倉公方との争いで大きな戦力として戦いました。中でも大きな勢力を持っていたのは、別府氏による武蔵一揆、東京秋川周辺の武蔵七党である、西党が中心の南一揆、河越氏を中心とした秩父党平一揆などでした。この城は南一揆によって築城されたのではないかと考えられています。また、軍事拠点の他にも、周辺の村民たちが領主の重税から逃れるための、避難場所としても使われていたのではないかとも考えられています。
度重なる戦いで一揆の勢力が没落してしまった後、16世紀の中ごろになると関東は、北条氏の勢力下になりました。北条氏の四男である北条氏照は、この城を近隣の滝山城や高月城、八王子城などと連絡を取るための支城として使っていたのではないかとされていますが、どのような目的で使用され、どのような経緯で廃城になったかなど、詳しいことはわかっていません。
ちなみに北条氏が関東に来てからの城主は、青木氏か秋川土着の武士である貴志氏(きしし)ではないかと幕末の史料には記されているのですが、北条家の史料で、家臣団に貴志氏の名があるため、城主は貴志氏が務めていたという説が有力です。
では、実際に見ていきます。 ここが登山道の入り口です。現在の弁天山と城山はハイキングコースになっています。また、弁天山には貴志嶋神社(きしじまじんじゃ)と呼ばれる神社もあるそうです。城山に入る前にまずは、弁天山に登ります。
貴志嶋神社の鳥居です。ここから登っていきます。
道はとても歩きやすいです。
約5分後、案内板のある休憩所のような場所に到着。
案内によると、この場所の近くには神社と、弁天洞穴と呼ばれる洞窟があるとのこと、神社と洞穴は帰りに回ることにし、まずは弁天山の頂上に行き、その後、城跡を目指すことにしました。城跡は弁天山の頂上から結構遠い場所にあるんですね。
休憩所から数分後、急に岩が多くなりました。頂上が近いようです。
頂上に到着です。スペースが狭いばかりか岩だらけでした。
頂上からの景色です。晴れていたので、街並みがよく見えました。次は城跡を目指します。
頂上から少し戻り、今度は城山へ。400m先に城山があるそうです。
弁天山の頂上までは歩きやすかったのに、なんだか急に険しい山道になりました。
こんな感じの道を登ること約20分。目的地である、城山頂上の網代城本丸跡に到着。特に何か残っているというわけではなく、ただ平になっていて、解説の看板が一枚立っているだけでした。解説の看板によると、本丸の他に、堀と土橋が残っているそうですが、人工的に造られた部分なのか、自然にできた部分なのかよくわからず、城の名残はこの本丸跡しか発見することができませんでした。
ここから最初の休憩所の場所まで戻って、今度は神社と洞穴を見に行くことにします。
ちなみに、本丸から少し進んだ先にも道があり、このような看板が立っています。私が入った場所とは別の登山口があるようですが、神社と洞窟が見たいのと、疲れていたので、高尾神社側には行きません。
●まとめ 感想
弁天山の頂上までは簡単に行けたのですが、城山からはご覧の通り、険しい道になり、本丸跡についたころにはくたくたになっていました。城跡は本丸と、いくつかの堀と土橋などしか残っていないため、あまり見どころがありません。城跡目的で来るよりも、ハイキングのついでに見ていくくらいの方がいいかもしれません。また、ハイキングコースは、戸吹城跡という城跡に続いているそうなので、機会があればそちらにも行って見ようと思っています。
私のPIXTAページです。よろしければご覧ください。写真は購入もできます。
興味があれば
次回は、貴志嶋神社と弁天洞穴を紹介します。
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