2019年8月の写真です。

戸倉城の場所はココ 東京都あきる野市戸倉328-1




●戸倉城についてザックリと
 この戸倉城(とくらじょう)は標高434mの戸倉山に築かれた山城で、戸倉山は五日市小盆地の西端に位置し、周囲には秋川と盆堀川(ぼんぼりがわ)があり、また、それらの川によってつくられた深い谷が三方をめぐるような地形をしています。山頂には東西それぞれに、防衛施設である曲輪が設けられ、東側の曲輪の方が広く、守りも厳重であることから、こちらが本丸だったのではないかと見られています。曲輪の周囲には土塁が置かれ、空堀も掘られていたそうです。現在は本丸跡と曲輪、空堀と土塁の一部と、井戸が残っています。

 
 戸倉城は室町時代から戦国時代初期にかけて、小宮憲明(こみやのりあき)という人物によって築かれたとみられています。この小宮という一族は平安時代から室町時代にかけて武蔵国(むさしのくに 今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)を中心に大きな勢力を持っていた、武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる中小武士団の内の一つである、西党(にしとう)に属しており、東京都あきる野市の秋川上流を地盤にしていました。

 1416年、武蔵国の守護大名であった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)は、対立していた鎌倉公方(かまくらくぼう 関東を支配した足利氏)の足利持氏(あしかがもちうじ)と、その補佐である関東管領の職にあった上杉憲基(うえすぎのりもと)に対して反旗を翻しました。その際、武蔵国の北側の武士たちは禅秀に味方し、持氏には小宮氏をはじめとした南側の武士たちが味方しました。小宮一族はこの戦いで衰退してしまい、没落してしまいました。

 小宮一族の没落後は、関東管領である上杉氏の家臣であった大石氏がこの城に入りました。しかし、関東で北条氏が勢力を伸ばすようになると、大石氏は上杉氏の家臣から北条氏の家臣になりました。

 その後、大石氏は東京都八王子市の滝山城に移るのですが、1546年に当時の大石氏の当主であった大石定久(おおいしさだひさ)は、北条氏康(ほうじょううじやす)に三男の氏照(うじてる)を強制的に婿入りさせられ、大石氏の実権を奪われてしまいました。その際、定久が隠居生活をしていたのがこの戸倉城であると言われています。

 
 この城は西多摩郡にある檜原城(ひのはらじょう)とともに、甲斐国(かいのくに 今の山梨県)の武田信玄の侵攻に備えて、八王子城の支城としての役割を担っていたのではないかと言われています。

 ですが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏が滅亡してしまうと、この城も廃城となってしまいました。



 載せられる写真がこれしか撮れませんでした。恐らく空堀だと思います。このすぐ近くに本丸まで行ける道があるのに気がつかず、この場所に解説の看板が立っていたので、遺構はこの場所しか残っていないと勘違いしていました。なので今回は本丸の写真はありません。ごめんなさい🙇

 ちなみにこの写真を撮ったすぐ近くには、室町時代最初期に創建された光厳寺(こうごんじ)というお寺があります。また、このお寺の周囲が城主の居住地だったのではないかと言われています。
ブログ用 戸倉城跡

立ってた解説の看板
ブログ用 戸倉城



●まとめ 感想
 せっかく来たのに、本丸を見ずに帰ってしまうとは・・・。もう少し下調べしてから行くべきでした。時間があればもう一度、本丸を見に行こうかと考えています。非常に悔しいです


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次回は、阿伎留城跡を紹介します。