2019年8月の写真です。

時間ができたので、久しぶりに史跡に出かけました。

東京都あきる野市にある、二宮城跡(にのみやじょうあと)です。

東京都あきる野市二宮2252




●二宮城についてザックリと
 この城は日本が南朝と北朝に分かれていた南北朝時代の1356年、信濃国佐久郡大石郷(しなののくにさくぐんおおいしのごう 今の長野県)を本拠にしていた、大石信重(おおいしのぶしげ)という人物が、北朝側の大将であった足利尊氏から武蔵国(むさしのくに 今の東京都、埼玉県、神奈川県の北東部)の多摩郡13郷を与えられ、この地に移り住むことになりました。その際に居館を構えたのが二宮城であると言われています。その後、大石氏はこの城から南に2kmほど離れた高月城に移ったためこの城は廃城になったとも、敵対する扇谷上杉氏に攻められて落城したとも言われています。

 
 居館は多摩川と秋川を眼下に望める、秋留台地(あきるだいち)の高台末端の平地に建てられ、北東南の三面は険しい崖となっており、南側には空堀、東西に約160m、南北に約220mほどの規模だったのではないかと言われていますが、現在この城があったとされている場所は、二宮神社(にのみやじんじゃ)と住宅地になっており、遺構はほとんど残っていません。

 この城跡の調査のため、1972年に二宮神社の境内の発掘調査が行われたのですが、関係史料を発見することはできませんでした。しかし1983年の発掘調査で、神社の東側段丘上の「御屋敷」と呼ばれる地点から、14世紀ごろのものと思われる豪族の居館跡が発見されました。また、その周辺では土塁や空堀跡も発見され、この地にかつて城があった可能性が高まっています。


●二宮神社について
 古代の日本では、国司は任国内の全ての神社を一宮から順に巡拝することになっていました。しかし、全ての神社を巡拝するのは大変ということもあり、国府の近くに国内の神社で祀られている神を合祀した、総社を設けるようになりました。総社は武蔵国(今の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)にも設けられ、国府の近くに大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)という総社が建てられました。

 この二宮神社は大國魂神社の東殿に位置し、その名の通り武蔵国の神社の中で2番目の神社となっており、古くは小川大明神や二宮大明神とも呼ばれ、有力な神社でした。

 創建時期は不明ですが、平安時代中期の武将である、藤原秀郷が平将門討伐の戦勝祈願で訪れていたり、鎌倉時代初期には源頼朝と北条政子からも厚く信仰されたりするなど、古い歴史と由緒があることがわかります。
 
 日本神話で天地開闢の際に最初に姿を現した神世七代(かみよのななよ)の一柱である、国之常立神(くにのとこたちのかみ)を祀った宮殿は、造りから室町時代後期の様式が見られ、市の歴史を知る上で重要な文化財である都市て、あきる野市の有形文化財に指定されています。また、宮殿が納められている本殿は江戸時代に造営されたと見られています。

 ちなみに神社の境内には、あきる野市の郷土資料施設である、二宮考古館があり、市内の遺構などで発掘された土器や石器などを中心に、約150点の考古遺物の展示を行っています。


ここが入り口です。すごく立派です。階段を登った先が本殿です。
ブログ用 二宮城跡4

上から見た景色
ブログ用 二宮城跡3


本殿です。本殿の中にある宮殿は見ることができませんでした。
ブログ用 二宮城跡

入り口の階段からも分かるように、かなり高い位置に神社があることがわかります。
ブログ用 二宮城跡2

 
●まとめ 感想
 周囲から少し高い位置にあり、「ここに城があった」と言われればそんな気もするのですが、やはり見てわかるような遺構が残っていないので、イマイチよくわかりませんでした。見てわかるような遺構が残っていればなー、といった感じです。

 城のあった場所ですが、二宮神社はこの城ができる以前から武蔵国にあった由緒ある神社と言われています。この城を建てた人は、そんな由緒ある神社の敷地に城を建てたということになります。これは少し不自然ですし、かなり罰当たりなことではないでしょうか。ひょっとしたら、境内で発見された遺構は城とは関係ないもので、城は別の場所にあったのかもしれませんね。関連史料や遺構が少ないため、場所の特定はなかなか難しそうです。


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次回は、戸倉城を紹介します。