勝沼城跡(かつぬまじょうあと)を紹介します。

場所はココ 東京都青梅市東青梅 6丁目46-2


 この城は、鎌倉時代末期に東京都青梅を拠点としていた三田氏(みたし)の、三田長綱(みたながつな)が築いた平山城とされており、築城後は三田氏の居城として使われ、その後に師岡氏(もろおかし)が居城として使ったため、師岡城とも呼ばれたそうですが、詳細は不明です。1925年に旧跡に指定、現在はスギやヒノキの植林地と、コナラやクリなどの落葉広葉樹林が広がる、自然豊かな森となっています。そのため東京都は、ここら一帯を「勝沼城跡歴史環境保全地域」に指定し、史跡と自然環境の保護を行っています。

三田氏と勝沼城について
 三田氏は、平将門の子孫であると自称していたようですが、京都の貴族であった壬生氏(みぶし)の子孫や、平安から鎌倉時代にかけて下総国北西部(今の千葉県北西部)や、陸奥国南東部(今の福島県東部)を領有していた大名であった、相馬氏(そうまし)の子孫であるという説もあり、未だはっきりとはしていません。
 鎌倉時代の末期近く、武蔵国荏原郡三田(むさしのくにえばらぐんみた 今の東京都港区三田)に居た三田長綱は奥多摩方面の領地を手に入れ、この青梅の地、勝沼に移り、この城を築いたといわれています。
 室町時代に入ると三田氏は、関東管領(かんとうかんれい 関東の政務を総括する役職。)の山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)の家臣となり、大きな力を持つようになります。そして1440年ころに、城下の街道に市(いち 品物の交換や売買を行う場所。)を開きました。この市が、後の青梅市の発展の基礎を作ったといわれています。
 戦国時代に入り、後北条氏が力を持つようになると、三田氏をはじめとした周辺の豪族たちは皆、後北条氏の配下につきました。しかし、1562年、上杉謙信が武蔵に侵攻してくると、このときの三田氏の当主、三田綱秀(みたつなひで)は後北条を裏切り、上杉の側につきました。なぜ裏切ったかについては不明ですが、もともと上杉氏とは深い関係があったため、やむを得なかったのではないかと考えられています。この裏切りを知った北条氏照は激怒し、三田氏の拠点であった辛垣城(からかいじょう)とこの勝沼城を攻撃しました。この攻撃により城は落城、三田氏は滅亡してしまったそうです。
 三田氏の滅亡後は、後北条氏配下の師岡将景(もろおかまさかげ)という人物が城主となり、城の名前も師岡城に改められました。その後、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐により、上杉、前田の軍勢に攻め落とされ廃城となりました。

 場所なんですが、城跡がある山はすぐ見つけることができたのですが、その山に入るための道がなかなか見つけられませんでした。例によって例の如く、道案内の看板はありません。周辺をうろうろとしていると、墓地を発見しました。そこでお墓参りに来ていた人に尋ねて、やっと入り口を見つけることができました。

山中はこのような雑木林です。
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スギ?の木がたくさんありました。
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このような平地が何カ所かありました。三の丸や二の丸がいくつかあるそうなのですが、ここがそうなのかな?よくわからなかったです
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この雑木林の向こう側に、光明寺(こうみょうじ)と妙光院(みょうこういん)というお寺があります。ちなみに妙光院は師岡将景の姉である、妙光尼が創建したといわれています。
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 帰ってから知ったのですが、私が入ったところとは別の入り口もあったらしく、そこには空堀や土塁、曲輪の跡がしっかりと残っているそうです。入り口を見つけるまでに疲れていたこともあり、そこにたどり着く前に途中で引き返してしまいました。疲れを我慢して進んでいれば、キチンとこの城を見ることができたのに・・・。もったいないことしました。 

色々な山城が載ってます


次回は、藤橋城跡を紹介します。