鎌倉井戸を紹介します。

場所はココ 東京都町田市山崎町1050-1 近くには薬師寺池公園があります。


 この井戸は町田市指定史跡で、標高128.5mの七国山(ななこくやま)の鎌倉街道内の雑木林にあります。
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 左が井戸、真ん中が解説の看板、影で見にくいですが、右が鎌倉街道の石碑です。

鎌倉街道について
 まずは、鎌倉街道(かまくらかいどう)についてザックリと紹介します。この街道は、各地と鎌倉を結んだ道路網のことで、鎌倉海道(かまくらかいどう)、鎌倉往還(かまくらおうかん)、鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれるそうです。
 作られたのは鎌倉時代、源頼朝が征夷大将軍になり鎌倉幕府(私は1192年で習いましたが、今は1185年らしいです。)を開くと、支配力の強化のため、鎌倉を中心に各地域を結ぶための道路の整備を行いました。中でも主要な道だったのは、鎌倉と群馬、栃木、長野方面を結んだ上ノ道(かみのみち)、鎌倉から山梨、栃木を通り福島方面へ伸びる中ノ道(なかのみち)、中ノ道から分かれ茨城を通って、房総、東北へ伸びる下ノ道(しものみち)の3つで、これらの道もさらに各所へ枝分かれしていたそうです。この道は単なる道路ではなく、鎌倉の有事の際に、幕府に仕える御家人(ごけにん)と呼ばれる武士たちが、鎌倉へ向かうための軍事的にも重要な道(いざ鎌倉っていうやつです。)でもありました。ちなみに、鎌倉街道と呼ばれていたのは江戸時代以降のことらしいです。
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鎌倉街道の石碑です。 「七国山 鎌倉街道の碑」と書かれています。

鎌倉井戸について
 この井戸は鎌倉街道の上ノ道にあり、1333年、鎌倉幕府を倒すために鎌倉へ攻め入った、新田義貞(にったよしさだ)が掘った井戸だと言われています。その後の時代には、街道を通る旅人や馬がのどを潤すために使われていたそうです。
 解説の看板によると、「井戸の深さは約4mあり、表土の部分は長い年月の間に崩れ落ちているが、地表から約1.5m下のローム層の部分には、下方に直径約70cmほどの円筒形の井戸が原形のまま保存されている。この層から汗のように滲み出た水が溜まっているものと考えられている。」とあります。「汗のように滲み出た」って、もうちょっと言い方あるんじゃないかな・・・。あまり美味しそうな水に思えないです。

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現在は、水は無く木の枠があるだけで、井戸は土で塞がれているみたいです。

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 井戸がある道はこのようになってます。木々がうっそうとしている中で、車1台がやっと通れるほどしかない非常に狭い道幅です。近くに案内の看板などが立っているわけではなかったため、見つけるのが大変でした。見つけてからも道幅の狭さからか、思うような距離と角度から撮影することができませんでした。井戸の周囲には柵などは無く、井戸と解説看板と石碑のみで、すぐ近くで見学することができます。
 地元の人々の生活路として使われているのか、犬の散歩をしている人や、車、バイク、自転車が頻繁に通りました。車を運転している方々は慣れているのか、この道幅にもかかわらず、スイスイと道を進み、対向車と鉢合わせても、スムーズに譲り合いをしてすれ違っていました。昔の地元民もこんな感じでスイスイ進んでたのかな

興味があれば
 



次回は、2018年3月の投稿結果です。