勝坂遺跡についてザックリ紹介します。

 勝坂遺跡公園の場所


 この遺跡は神奈川県相模原市にある縄文時代中期(約5000年前)の大きな集落跡で、公園になっている部分は国の史跡に指定されています。また、考古学上において関東地方の基準となる遺跡、標式遺跡になっています。要するに研究上重要な発見があった遺跡です。
 どのように重要な発見があったかというと、まず一つ目が、土器の発見です。日本の古代の時期区分は、土器の模様や形で決められています。例えば「この遺跡はAの模様と形の土器が出土したから、この遺跡は縄文時代初期のものだな」とか「この遺跡はAの模様と形の土器に加え、Bの模様と形の土器も出土した。つまりこの遺跡は縄文時代初期から存在し、中期頃まで人が住んでいたんだな。」といった感じで、出土した土器によって時代区分をある程度決めることができます。その模様と形の基準となる土器が発見されたのがこの勝坂遺跡です。土器は勝坂式土器と命名されました。土器の特徴としては造形がとても豊かで、人やヘビ、獣類などの動物を表現した模様をしています。公園内の管理棟内に土器の展示スペースがあるので気になる方はぜひご覧になってはいかがでしょうか。
 二つ目が大量に出土した打製石斧(だせいせきふ)です。研究を進めていくと、この石斧は狩猟の際に獲物を叩くためではなく、地面を掘るために使われていたことがわかりました。これは縄文時代に農耕がすでに行われていた、またはその概念があったことを推察できる史料になりえるものでした。これまでは農耕は主に弥生時代に行われていたというのが通説でしたが、この発見により縄文時代にも農耕を行い、定住生活をしていたのではないかといわれるようになりました。
 これら二つが考古学研究上、重要であるといわれ、国指定史跡と標式遺跡になった理由です。

遺跡公園内の略図(写真データ残ってなかったので絵でごめんなさい🙇)
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 絵の赤丸の部分で住居跡が五つ発見されました。五つの内三つが廃絶住居(はいぜつじゅうきょ)と呼ばれ、ちょっとした窪地になっています。これは竪穴式住居の跡であると考えられ、ここに住んでいた住人が別の家に移ったと考えられています。この遺跡の廃絶住居では、土器や石器、石や炭化物が大量に出土したので、恐らくはゴミ捨て場として利用していたのではないかと思われています。残りの二つが竪穴式住居跡で笹葺屋根と土葺屋根の再現がなされていて実際に中に入ることができます。
 絵の左上、緑で林と書かれた部分は、縄文生活林と呼ばれ、林の木々は家を建てる際の建築材や道具を造る際、その他火を起こす際の薪として使用されていました。また、自生している山菜やクリやクルミを食料にするなど、ここに住む人々にとってなくてはならないものでした。この土地はとても日当たりが良く、また土壌も良かったためこのような環境になったと思われています。
 絵の生活林の左下、敷石住居跡が発見されました。この住居跡からはいくつかの土器が出土しました。
 絵の一番左側かんり、と書かれている部分には、出土した土器などの展示と解説のある管理棟と、トイレがあります。

勝坂遺跡の周辺
 勝坂遺跡の周囲には縄文時代中期の遺跡が数多く存在します。原東遺跡、川尻中村遺跡、新戸遺跡、当麻・田名花ヶ谷戸遺跡、田名塩田遺跡群、下溝遺跡群などです。これらの遺跡は相模川とその支流域に多くあり、10数軒から数10軒の集落跡で、5000年前から500年間にわたって継続的に集落が営まれていたことを示す史料になります。気になる方はぜひそちらの遺跡たちにも足を運んでみてはいかがでしょうか。

 余談ですが、日本の場合、建物を建てるとき地質調査を行い、遺跡が発見された場合は、一旦建築作業を中断し遺跡の調査をします。調査では遺跡がどのくらいの範囲なのか、どのような形なのか、どこでどのようなものが出土したのかなどの情報を絵などに書いてメモしたり、写真に撮って記録しておきます。調査終了後、遺跡を保存したり、崩して建物を建てる、という流れになっているのですが、このときに出土した土器や石器などは、落とし物として警察に届けられ、財布など通常の落とし物と同じように3か月保管されます。持ち主がいなければ、警察に書類を提出後、博物館などの研究機関で保管することができます。持ち主が現れた場合は、それを証明できるもの(先祖が書いた古文書など)を提示し認められれば、持ち主のものになるそうです(例外も有り)。もしも警察に届けずに勝手に保管してしまったら、横領の罪に問われてしまいます。
 まさか、考古学の発掘に警察や法律が絡んでくるとは驚きですよね

興味があれば
    

次回は、2017年7月の投稿結果とセミを紹介します。